東日本大震災から10年、私にとって、あの日のことは「忘れないこと」ではなく、「忘れられないこと」となりました。震災当時はあまり語ることが出来ませんでしたが、私は、映像よりも音での記憶としてあの日のことが残っています。津波と共にいろいろなものが流されていったあの音を、この時期になると、10年たった今でも鮮明に思い出してしまいます。鳴り続けるクラクション音、あちこちからの悲鳴や助けてという声、言葉では表現出来ない津波の濁音。私は母と一緒に間一髪で避難所につくことができ、ギリギリで津波を免れましたが、津波の勢いが落ち着いた後も、すぐ近くの屋根の上や、塀の上から助けを求める人達の叫ぶ声が聞こえてきました。浸水した暗闇の中ではどうすることも出来ず、一晩中、声をかけあいながら朝を待ちましたが、翌日、助かった人、助からなかった人と、大きく明暗がわかれました。当時は、何が起こったのか起こっているのか現状をなかなか把握できずにいました。日が経つにつれ少しずつ情報が入ってきて、現状が見えてくるという状態で、被害の大きさがわかってくるにつれ、この世に神様がいるのなら、どうしてこんなことが起こるのか?と何度も問いかける日々が続きました。
ですが、この震災をきっかけに、日本中の、世界中の本当に多くの方々が、まだ余震の続く東北へ、次から次へと支援に入ってくださいました。私は、多くの優しさや思いに触れ、東北は、見捨てられたのではなく、たくさんの人達の想いが集まる拠点になったのだと少しずつ感じられるようになっていきました。それでも何年もの間、大切な友人・知人が犠牲になったこともあり「何故、私じゃなかったんだろう?私が代わりに犠牲になればよかった」という思いになり、「あなたは生かされたんだよ、まだこの世での役割があるんだよ」と声をかけてもらっても、どうしても何故?という思いに戻ってしまいました。今やっと10年が過ぎ、あの時の痛みが私の一部となって、今の自分となり、生かされている、と自然に思えるようになりました。
K2石巻が出来てからも10年。ここではご紹介しきれない多くの出来事がありましたが、10年で終結するのではなく、今、石巻に住民票を移し、生活し、繋がっている多くの若者たちが、これからの石巻の未来を作ってくれていくと思っています。石巻では、震災前から過疎化という課題がありましたが、震災をきっかけにさらに深刻化していきました。でも、K2につながる若者達は、石巻という地域特性が自分にあっていて生きやすいと感じ、ジョブキャンプに参加したことをきっかけに、一定数のメンバーがまた石巻へ戻ってきています。
「石巻はおもしろい 石巻はチャンス 石巻で生きる」
これからも多くの若者たちが石巻でチャンスを見出し、ここで生き、未来を支える希望になってくれると願っています。
支援者にこそ支援を!
私たちがこの活動を今まで続けていけているのはなぜでしょうか?
私たちは石巻を支援するのではなく、石巻の人たちに励まされて、支援が「支縁」になって今があります。
10年経ちましたけど、当時の事は忘れられません。こんなことがあるのかというぐらいショックでした。
私たちは生きづらさを抱えて、家から出れない子達と一緒に30年やってきましたが、その子達が石巻だったら楽に生きれると言いだしたんです。石巻のほうが楽できるねんと、選ぶ子が出てきたんですよ。上から目線で何かするのではなく、その事が喜びになっているんですよ。
そして横浜で不登校や引きこもりだった若者が12名も石巻の住人になり、現地で働き、生活しています。
この10年の間に一番うれしかったのは、石巻の人達が「K2大丈夫か?心配だ」とK2の子達を元気づけようと言って「K2友の会」を作ってくれたことです。今も続いているのはそういう事だと思っています。
上からの支援や自己犠牲的な事では続かないと思っています。
そしてこの活動は横浜市の協力がなかったらできなかった事です。
これからも横浜市と対等なかかわりの中で色々な事業が展開していけることを望んでいます。
最後に、私たちが支援者と呼ばれる者であるなら、私たちが支援される事が必要です。支援者が支援者でいられるのは支援者を後押ししてくれる人がいるからです。
どうかこれからもこの活動が続けていけることを願っています。