特集 石巻人から学ぼう 震災への備え!!

うんめぇもん市の活動レポート「やっぺす通信3月号」より
特集の記事を抜粋して掲載しています。

玉井さん 挨拶

3月11日、あの震災の前日余震がありました。
その余震程度の地震は比較的頻繁にあり、慣れていました。
まさか、あんな大震災が発生するとは誰も予想はしていませんでした。

あの日私は働いていた文具店で昼休憩が済み、職場に戻ってきた時でした。
地震は激しく、10分間程揺れ続けていました。今でもあの感覚を思い出すと恐怖が蘇ります。
あれだけ長い時間の揺れに耐えきれなかった電線は切れ、火花がちり危険な状況でした。
職場の仲間や自分も言葉を失ってただただ収まるのを待ちます。
地面が揺れ続けるという不安はそこから何ヵ月も続きます。
一時揺れが弱くなった時、お客様は外に皆出てもらったけれど2階のギャラリーにまだ人がいる、、、。
私は無我夢中でヒールを脱いで階段をかけ上がり助けに行きました。
絵画展のパネルや額はドミノ倒しになっていて幸いなことにけが人はいませんでした。
皆さんはそれぞれ車で帰られるとの事でくれぐれも気を付けてと言って見送りました。
程なくすると近所の方々が避難されてきました。
警報では10メートルの津波が来ると放送され小中学校に避難する人もいれば、お歳を召した方は遠すぎて避難できず、近くの高い大きなビルに逃げ込んで来る方もいらっしゃいました。

その為80人の人と5日間社内にとどまる事となりました。
3日目に自衛隊の方がヘリコプターから降りてくるのが今でも忘れられません。
直後は街に人気はなく車もなく砂埃が立ち、自分が経験したことのない戦争とはこの光景に近いのではないかと思いました。
門脇地区の建物が焼けて錆びた鉄の山になりブルドーザーが道を切り開き、友達も親戚も知り合いもお客様も皆無事でありますようにとただ願い、お互いが生きていたという再開を何度もしました。
その反面、不幸な知らせもありました。その中で希望を見つける事は悲しみに暮れない、目の前にご縁があって横浜に来たものの、先日歴史博物館に足を運んだとき、横浜と石巻は同じ港町として古くから物流があるという資料を見つけ見慣れた文字に少し懐かしさを感じました。

港町は津波がつきものです。同じ災害が起きた時、どうすればいいのか?
震災を経験すると頭がここで震災が起きたら?とよく考える事があります。
仕事をしていると一日のうちいる場所が違うので、私はよくその時ならどうなるか?なにができるか?を想像をしています。
そして、想像した事を職場の人や近所の人等と一緒に話をする事がとても大事だと思っています。
横浜の皆さんとも一緒にそんな事が出来たらと思っています。

震災を経験して今感じる事は、食べ物、飲む物、寝るところ、電気、お風呂の有難さを身を以て感じたので、何事も大切に、無駄にしないようにしたいなと思っています。
そして震災で全国の方々からの応援、言葉を、あの時、今でもこれからも感謝の気持ちを持ってお返ししていく気持ちでいます。

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